四つ建て民家(旧小林家住宅)
愛知県春日井市柏原町2-99
春日井市有形民俗文化財指定(昭和56年)
この建物は、この地方に古くから残る「四つ建て」とよげれる建て方となっています。明治元年(1868年)ごろ、勝川町に建てられたもので、当時(明治初期)の標準的な農家住宅です。昭和53年(1978年)に現在の場所に移築しました。
元々、屋根は草葺きでしたが、ここに移築する際に防火上の理由から重鉛メッキ鋼板を上から被せ、草革屋根を保護してあります。「四つ建て」と呼ばれるのは、4本の柱を中心にして家を支える構造となっているためで、柱の間の梁が2本かかっているため、その様子が神社の鳥居に似ていることから「鳥居建て建築」と呼ばれる場合もあります。
内部を見ると、柱や梁に使われてない「ホゾ穴」がいくつもあり、古い家を解体した「古村」を使っていることがわかります。部屋は「だいどこ(居間)」、「でい(客間)」、「なんど(寝堂)」の3つですが、「だいどこ」の一部(北側)を「かって(食堂)」として区別し、使われました。その後の一般的となる「田」の字に4つの部屋をつくる問取りの原型といえます。上間は、使い方により区分きれ、炊事場・作業場としての「にわ」、馬を飼う「まや」、味噌・溜(たまり)海・漬物など食料を保存する「ほそや」に分かれています。
春日井市教育委員会文化財課資料より転記
四つ建て民家断面図(参考)
春日井市ホームページから引用
※現在の建物と断面図の屋根形状は異なります。
四つ建て民家平面図
春日井市ホームページから引用
旧下街道沿いに建つ油茂商店は、貴重な伝統的建造物として保存されています。現在も実店舗として利用されています。通りの反対側にも、油茂商店が所有する伝統的建造物が保存されています。
この建物は、江戸時代末期の酒造家飯田重蔵の離れ屋敷でした。江戸時代に名古屋城下と中山道を結ぶ道として栄えた下街道に面しており、一時期、商工会議所や銀行として使用されたことがありましたが、そのたたずまいは往時をしのばせます。庭には、横井也有の句碑や道標があります。昭和48年6月に市制三十周年を記念して郷土館として開館しました。
市指定文化財
明治天皇下原新田御小休所旧跡
明治13年(1880年)に明治天皇が御巡幸の折に、多治見から下街道を通られ、この建物で休憩されました。昭和33年、この場所は市の文化財(史跡)に指定されました。
春日井市教育委員会資料より転記
春日井市鳥居松町
下街道沿いに伝統的建造物が2軒並んで建っています。屋根や窓の形状から、両家とも、同じ大工棟梁によって建設されたと思われます。
愛知県春日井市内津町24
内々神社社殿(県指定)
内々神社の創建は古く、平安時代の延喜式神名帳(えんぎしきしんめいちょう)に記載されており、祭神には建稲種命(たけいなだねのみこと)・日本武尊(やまとたけるのみこと)・宮賞姫命(みやずひめのみこと)を祀る。現在の社殿は、信州上諏訪の大工立川富棟、富之、富方の立川一門によって、文化年間(1808年~1817年)に建立された。
建築様式は、本殿と拝殿を中間の幣殿で連結した、いわゆる権現(ごんげん)造である。本殿は三間社流造。拝殿は正面に一間の向拝(こうはい)を構え、軒中央の唐破風(からはふ)と大屋根の千鳥破風の重なりが正面感を強調している。向拝の海老虹梁(えびこうりょう)に代表されるように、拝殿・本殿共に細部に多くの白木の彫刻が施されており、江戸時代後期の傾向を示す代表的な神社社殿である。
景行天皇の御代、大和勢力が日本全国にのびる時に、日本武尊が登場してきます。尊は熱田の宮で、尾張の祖といわれる建稲種命に会われ、副将軍とされ、その妹宮賞姫命と婚約され、東国の平定に出られました。平定が終っての帰り道、尊は甲府から信州長野、美濃大井、釜戸、池田を通適って尾張との国境内津峠にさしかかりました。
その時、大へんなことが起こりました。東海道を帰られた建稲種命が、駿河の海で水死されたことを、従者の久米八腹が早馬で知らせて来ました。それを聞かれた尊は「あ元気な稲種が・・・」と絶句し、しばらくして「ああ現哉々々(うつつかな)」となげかれ、その霊を祭られたのが肉々神社の始めで、内々神社の前の宿場まちを内津といいます。
これは内の字の下に、舟や人の集まる意味の津をつけたものです。しかし、その時祭られた場所は、ここより1キロメートル余り入った奥の院だったと思われます。西側の街道に沿った谷川の右側に細い踏み分け道があり、それをたどったところに大きな岩くらがあります。見るからにおそろしいような鉄梯子を登ると、洞富の中にある奥の院にお参りすることが出来ます。
春日井市教育委員会資料より転記
現存する多宝塔は、建築様式から室町時代中期の建立とみられています。多宝塔の大きさは、桁行三間×梁間三間の正方形で、内部には四天柱が建てられています。その中央に仏壇が設けられています。屋根はこけら葺の優美な姿です。柱は全て先を細く丸めた円柱で、下層の柱間は長押を打たずに貫のみで固められています。軒先は手先を四つ前へ出して桁を受ける四手先枓栱で、斜め下前方へ突き出る尾垂木が付いています。
愛知県春日井市熊野町3133
密蔵院は嘉暦3年(1328)に禅密兼学の一派である葉上流の伝法灌頂道場として慈妙によって開かれた天台宗の寺院。
紫金山慈眼寺は、江戸時代に中国・明の僧、隠元が大陸から伝えた黄檗宗(おうばくしゅう・禅宗の一派)に属しています。もとは寛文12年(1672年)に隠元の孫弟子・越伝が春日井郡三ッ淵村(現小牧市)に開創した寺でしたが、その後は衰え、宝永6年(1709年)に越伝の弟子・単伝がこの地に同名の寺を復興しました。
春日井市教育委員会資料より転記
紙本着色 越伝道付画像
江戸時代初期の作とされ、黄壁派の画僧、喜多元規によって描かれた越伝の画像です。顔以外は弟子たちが描いたとされていますが、線は力強く、表現は写実的です。
木造越伝道付坐像
江戸時代初期の作とされ、寄木造の等身大の頂相(肖像彫刻)です。右記の画像に酷似しており、この画像をもとにつくられたと思われ、禅僧の鋭い眼光、きびしい表情、端然たる容姿が表現されています。
木造聖観世音菩薩坐像
平安時代の作とされる一木造の彫刻で、由来は不明ですが、江戸時代に本寺に移され客仏となりました。ふっくらとしたなかにも目鼻立ちのはっきりした顔や体つきから、平安時代の特徴が感じられます。
鎌倉時代に、現在の春日井市上条町(尾張国春日井郡上条)に上条城が、室町時代には、吉田城が築城されています。1603年(慶長8年)に検地が行われ、1623年(元和9年)名古屋・小牧・犬山を結ぶ稲城街道(上街道)が、春日井原の西に開通し交通の便が良くなりました。江戸時代初めの頃の春日井市の西半分ほどは、春日井原と呼ばれ人の住めない荒野になっていました。春日井原に最も早く人が住み着いたのは、朝宮というところで、ここには昔から和爾清水と呼ばれる泉がありました。人々はこの湧き水を利用して水田を開き、春日井原開墾の始まりといわれています。江戸時代中期になると、下街道が旅人で賑わうようになり、玉野用水も整備されました。
明治時代になって、1900年(明治33年)に春日井で初めて鉄道が開通され、名古屋から多治見までの中央線の一部が庄内川にそって敷かれ、勝川駅と高蔵寺駅が造られています。
開業当時の中央線勝川駅(東春日井郡誌より)
1943年(昭和18年)陸軍工廠の設置を契機として、鳥居松村、鷹来村、篠木村の3村と勝川町が合併して市制施行し、春日井市となりました。
第二次世界大戦中、陸軍工廠ができ兵器生産の拠点となり発展。しかし、その陸軍工廠は、第二次世界大戦後に廃止となったことで人口が激減しました。陸軍工廠跡地は、王子製紙工場と名城大学農学部として利用されています。
1958年(昭和33)坂下町、高蔵寺町の2町を編入し現在の春日井市となりました。1961年に、当時日本最大となる高蔵寺ニュータウンが建設され、住宅都市となりました。1964年に、中部大学が開学しています。
春日井市
面積 92.78km2
人口 311,127人(2020.10.1現在)